この記事は、「【論文】:真空のダイナミズムと普遍的仏性」の簡易説明版です。論文はこちら→【論文】:真空のダイナミズムと普遍的仏性── 量子論的宇宙像と一乗思想の融合における、非情成仏の論理的帰結 ──
「物理学と仏教は行きつく結果は同じところ?」
仏教哲学と現代物理学。一見、異なる二つの領域ですが、その論理を突き詰めていくと、必然的な結論にたどり着いてしまいます。
それは、「もし人間が成仏できるのなら、路傍の石や宇宙そのものにも、等しく仏性が宿っていなければ論理が破綻する」という結論です。
私が思考してたどり着いた「仏教と物理学の整合性」について、整理してみたいと思う。
「境界」の消失がもたらすパラドックス
仏教、特に大乗仏教が目指す最終地点は、自己と世界を隔てる境界線の消失です。
修行が進み、悟りの境地に至れば、「私」という固定的な器は解体され、意識は宇宙全体へと拡張する。いわゆる「自他一如」の世界になります。
ここで、一つの論理的な問いが生じてしまいます。
もし、伝統的な解釈のように「人間(有情)には仏性があるが、物質(無情)にはない」と仮定してみよう。
すると、悟りを開いて宇宙と一体化した人間は、「仏性を持つ自分」と「仏性のないただの物質」が混ざり合った、矛盾した存在になってしまいます。
「すべてが自分であり、自分が宇宙である」という境地が真実ならば、その対象である宇宙(物質)側にも、主体と同じ「仏性」が内在していないと、等式は成り立たないのです。
「空」の正体は物理的な「場」である
この辻褄を合わせる鍵は、般若心経の説く「空(くう)」の再定義にある。
多くの人は「空」を「虚無」だと誤解していますが、それは誤りです。仏教が否定したのは「固定的な実体」のみで、「働き(機能)」までは否定していません。……とはいえ、これでは確実にイメージがわかないと思います。
これを現代物理学の視点で言い換えてみると、急に簡単になります。
宇宙空間(電磁場、重力場、量子場、etc.) = 空(くう)
宇宙空間は「無」ではありません。電波を伝える電磁場、重力を伝える重力場等々の「場」が支配している空間です。この「場」すべてひっくるめたものが「空」です。
宇宙空間である「場」には、様々なエネルギーが「波」のように相互に干渉しあってゆらゆらと揺らめいています。この「波の相互作用」が般若心経の説く「 縁起(えんぎ)」です。そして、私たちが「物質」と呼んでいるものは、宇宙という巨大な「場」において「局所的に励起した波(エネルギーの塊)」でしかありません。これが、般若心経の説く「色(しき)」になります。
量子力学が描く世界において、粒子がカチッと固まった「実体」はありません。そこに「実体としての境界」など最初から存在していません。
- 仏教の結論: 器(我)はないが、縁起(関係性)はある。
- 物理の結論: 粒子(実体)はないが、場(相互作用)はある。
この二つは、全く同じ真理を、異なる言語体系で語っているに過ぎないことが見えてきます。
思想の螺旋的発展
紀元前700年頃、ウパニシャッド哲学は「梵我一如(宇宙と私は同じ)」と説き、その後ブッダはそれを「無我」によって否定しました。
しかし、大乗仏教は「空」というフィルターを通すことで、再び「草木国土悉皆成仏(物質などの「非情」も成仏する)」という、全肯定の世界観へと回帰していきました。
これは単なる先祖返りではなく、それまで万物の存在を否定する経験を経た上で、対象に対する抽象度が上がってしまい、俯瞰して眺めてみたら全肯定するしかなくなってしまったんです。
現代の科学もまた、物質を細分化し存在を否定し続けた結果、量子論や超弦理論を通じて、「宇宙の全体性」や「意識と物質の非分離」といった、仏教と同じ結果に行きつこうとしています。
この思考を論理的に突き詰めていくと、宇宙は「そうできている」ということになってしまいます。いずれ、物理学が仏教に追いつくのではと考えています。

