【論文】報酬系回路の暴走と「美食」という名の認知バグ 〜進化のレガシーコードがいかにして現代人をハックしたか〜

個人的考察

【要旨】

本論は、現代社会において高尚な文化活動と見なされている「美食」を、生物学的な生存戦略における「進化的不適応(Evolutionary Mismatch)」によるプログラムの誤作動として定義するものである。代謝維持を目的とした摂食行動が、現代の過剰な食糧環境下において、いかにして脳内報酬系を標的とした「内因性ドラッグ・ハッキング」へと変質したかを、脳科学および哲学(唯識)の視点から解明する。


第1章:進化的不適応と「節約遺伝子」のバグ

人類の遺伝子構造は、数万年にわたる飢餓環境に最適化されている。J.V.ニールが提唱した「節約遺伝子仮説(Thrifty Gene Hypothesis)」によれば、糖分や脂質を「美味しい(報酬)」と感知し、執着して摂取する個体こそが生存に有利であった。

  • バグの構造:しかし、供給が需要を飽和させた現代において、この「執着」のコードは終了条件を失ったまま暴走を続けている。これは、古いOS上で最新のアプリケーションを無理やり動かそうとしてシステムが熱暴走している状態、すなわち「進化的不適応」による致命的なバグである。

第2章:ヘドニック・ハンガー:脳内報酬系のハッキング

現代の摂食行動は、身体がエネルギーを必要とする「ホームオスタシス的空腹」から、脳が快楽のみを求める「ヘドニック・ハンガー(快楽的飢餓)」へと移行している。

  • 報酬系の脆弱性:脳科学者のN.D.ヴォルコフらの研究(2011)によれば、高糖質・高脂質食の摂取は、アルコールや薬物依存と同様に、脳内の「ドーパミン報酬系回路」を強力に発火させる。
  • プッシャーとしての料理人:一流の料理人が追求する「味」とは、H.モスコウィッツが定義した「至福点(Bliss Point)」、すなわち脳が最も快感を感じ、かつ中毒性を引き起こす糖・塩・脂の配合比率の最適化である。これは芸術活動ではなく、脳の脆弱性を突く「化学的プログラミング」に他ならない。

第3章:認識の構造学:唯識から見る「美味しさ」の正体

このバグの本質は、仏教哲学の「唯識(Vijnapti-matrata)」における「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」の概念によっても説明が可能である。

「食べ物そのものの中に『美味しさ』という実体があるのではなく、我々の『阿頼耶識(潜在意識)』に蓄積された種子が、外部の刺激に反応して『美味しい』という幻影を投影しているに過ぎない。」

人間はこの投影された幻影を「実在するもの」と誤認(認知のバグ)し、存在しない実体を求めてさらなる美食という名の刺激を追い求める。ミシュランの星を追う行為は、この認識の歪みを社会的に強化する装置である。

結論:バグの認識と「構造的摂食」への回帰

「美味しい」という感覚に身を委ねることは、システムの脆弱性を利用したハッキングに加担することと同義である。我々に必要なのは、このバグを客観的に認識し、食を「脳を喜ばせる手段」から「生命を維持するための構造的な補給」へと再定義することである。美食という依存から脱却し、認識の解像度を上げることこそが、現代における真の「知的生存戦略」である。


【参考文献・注釈】

  • Neel, J. V. (1962): “Thrifty gene hypothesis.” 進化的不適応の基礎理論。
  • Volkow, N. D., et al. (2011): “Reward, dopamine and the control of food intake.” 摂食がドラッグと同じ回路を使うことを証明した脳科学論文。
  • Moskowitz, H. R. (2004): “The Bliss Point.” 食品科学における至福点の概念。
  • Vasubandhu (世親): 『唯識二十論』『唯識三十頌』。認識の構造と執着に関する哲学的基盤。