「論文:合理性(文字)の導入がもたらした「表現」の疎外」の簡易説明版です。
1. 「忙しくなったから」は、ウソ。
縄文土器の、あの情熱的でエネルギーに満ちた火焔型(かえんがた)のデザイン。あれが、弥生時代になると、急に「合理的」で、簡素なデザインになってしまいます。
これは、考古学の「主流な説明」では、「稲作が始まって、米を貯蔵したり炊いたりする必要(=機能)が生まれたから」とか、「稲作は忙しいから、デザインに割く時間がなくなったから」と言われています。
でも、それ、おかしいですよね。
縄文人だって、かなり忙しかったはずです。狩猟採集は、食料が獲れなければ「死」に直結する、過酷なサバイバルです。「忙しいからデザインを簡略化した」なんていうのは、理由になりません。
じゃあ、なぜ、あれほど「芸術的」だったエネルギーが、急に「不要」になったのでしょうか?
2. 真犯人は「文字(合理性)」というOS
弥生時代に、大陸から渡来人が持ち込んだのは「稲作(技術)」だけではありません。彼らは、「世界を『合理的』に管理・分類する」という、縄文とは真逆の「OS(思考法)」を持ち込みました。
その「合理主義」の究極の象徴こそが、「文字」です。
縄文時代、文字がなかった時代、あの「過剰なデザイン」は、単なる飾りではありませんでした。それは、
- 「俺はここにいる!」という、個人のエネルギー(リビドー)の「吐出口」であり、
- 「私」を証明するための、唯一の「名刺代わり」でした。
「機能(煮炊き)」と「表現(名刺)」が、一体化していたのです。
しかし、「文字」という、より合理的で、強力な「名刺(=個を識別するシステム)」が(たとえ支配層だけにでも)到来した瞬間、旧来の「名刺(=土器のデザイン)」は、その「役割」を失いました。
新しいOS(合理主義)から見れば、あの過剰なデザインは、「非合理的」で「意味のない」ものになった。だから、捨てられたのです。
3. 「しわ寄せ」としての「美術品」の誕生
じゃあ、「日用品(土器)」から追い出された、あの「吐き出したい」エネルギー(リビドー、ストレス)は、どこへ行ったのか?
それが「しわ寄せ」となって、「機能」とは完全に「分離」された、新しい「専門分野」を生み出しました。それこそが、「美術品(Art)」の正体です。
- 縄文: 機能 + 表現 = 土器(一体)
- 弥生以降:
- 機能 → 日用品(シンプル化)
- 表現 → 美術品(=「しわ寄せ」の隔離場所)
わかりやすいところで例を上げますと、江戸時代の浮世絵(写楽、国芳など)を見てください。あのデフォルメや色使いは、タテマエ(合理性)の社会で「言葉にできないストレス」を、「吐き出すしかなかった」エネルギーの「化身」そのものです。
4. 現代の「歪み」― なぜ「高価な美術品」を買うのか
そして、この「しわ寄せ」のシステムは、現代の「資本主義」(=すべてを「カネ(合理性)」で測るOS)によって、究極に「歪んで」います。
- 昔(縄文)は、誰もが「創る(=吐き出す)」側でした。
- 今(現代)は、分業化され、ほとんどの人が「創る」プロセスから「疎外」されています。
- 人々は、「自分で吐き出せない」ストレスを解消するために、「他人が吐き出したストレスの塊(=美術品)」を、「カネで買う」という「代替行為」に走ります。
でも、「買う」ことは「創る」こととは全く別物です。だから、「本当は当人のストレス解消にもなっていない」のに、高価なモノを買うことでしか精神のバランスが取れない。
これこそが、現代社会の「歪んだシステム」の正体です。
5. 結論:理想郷は「縄文」にあった
この「歪み」の根源が、「合理性(文字)」が「リビドー(表現)」を「日用品(機能)」から「分離」させたことにあるのなら。
結論は一つです。
「理想的な世の中とは、その『分離』が起きる以前 ―― すべての人が『名刺代わり』の表現者であり、リビドーと機能が一体化していた、『文字のない』縄文時代だった」
縄文時代のコミュニケーションは実際に人同士が対面し、言葉を交わす手法だったはずです。非言語コミュニケーション(表情の機微や間、動作)の受信、発信能力も、現代人より優れていたのではないかと推察できます。現代に起きている多くの問題が、起きなかったなのではないかな、と考えています。